陸軍主計曹長・故叔父岩原好夫(大日本帝国陸軍関東軍)の霊に捧ぐ

 
さきの大東亜戦争で祖国防衛のために若き尊い命を祖国に捧げし幾多の英霊に対し謹んでお礼申し上げます。
色んな資料から出来うるかぎり情報を集めております。

もし早稲田大学商科の頃、また虎林の兵役中のこと、グアムのことなど少しでも知っている方がいましたらご一報下さい。
叔父は旅団司令部所属の主計曹長としてグアムで活躍後玉砕したと思われます。最後は不詳。

 遺品遺骸は無く、ビー玉が入っていた。

<経歴>

生年月日 大正4年(1915)10月30日

 


18才 京城中学校卒業、
    大学予科2年間?

    早稲田大学商科入学

    下宿生活?

19才 早稲田大学同級生との記念写真撮影、また1935年10月大隈会館内の写真あり

    母方の里、島村一家がいた青島(チンタオ)へ旅行(昭和16年の後も何度か行く)

    昭和10年で20才大学生で徴兵検査兵役延期?

23才 昭和14年3月 早稲田大学商科卒業

24才 昭和15年(1940年)4月?軍需工場日本高周波重工業株式会社城津工場(製鉄)就職

    徴兵検査、四国丸亀(第44連隊に入営?)

    本籍地旧長岡村陣山で入営式?壮行会?

25才 昭和16年(1941)2月3日入営 軍需工場日本高周波重工業株式会社城津工場(1年弱就職    )で壮行会、入営の前の日の3人で写した写真あり。

26才 昭和17年5月満州虎林11師団第1次野営演習参加か?

      長岡村村長の虎林訪問で、同郷の集いがあり親戚の岩原巌さんと逢う。

    岩原好夫は本籍の陣山に暮らした事はないので、岩原巌さんをその時まで知らない。
<26才 昭和16年(1941)12月8日真珠湾攻撃太平洋戦争始まる>

<26才 昭和17年6月5日 ミッドウエー海戦>

26才 父の死を知らされ葬儀にソウルへ帰郷(昭和17年2月28日1942年)

    葬儀への行きか帰りに島本氏(城津)の所へ立ち寄る

27才 昭和17年12月6日東安省虎林陸軍病院1ヶ月入院(肺炎)26、7才
27才 昭和18年2月11師団冬期演習(満州虎林)

28才 南方グアムへ転属(移動中の昭和19年3月2日釜山で軍刀を届けに来た?家族と会う、)

       3月3日釜山出航

28才 3月12日出航前9、10、11日いずれかにに横須賀でソウル新堂町母親宛葉書を出す(最後の手紙となる)

28才 グアムで戦死(昭和19年7月26,27日?記録無し)



母親の夢枕に軍刀を杖にして現れる

昭和20年7月12日高知聯隊区司令官黒岩義勝氏より戦死公報が届く

香美郡土佐山田町なべ山の岩原家の墓地に眠る

現南国市後免駅北の旧長岡村?出身の戦死者を祀る忠霊塔に眠る

79才 平成7年8月遺族3名(故岩原好夫の弟夫婦と甥)が米国グアム島へ戦没慰霊に赴く

生きていれば現在84才

 


経歴以上
以下 グアム戦記


(資料、出典不明)

独立混成第48旅団グアム島に玉砕

 


出典不明

はじめに

 

 昭和17年6月5日のミッドウエイ作戦を転機とし、太平洋における製海・空権は一変して米側に移り、それ以後われわれは守勢に立つに至った。

同年8月米軍のガダルカナル島に対する反抗開始以来、日本軍は、これが奪回に苦闘を重ねたが、昭和18年9月中旬、米軍から思い切って間合いを取り不敗の戦略態勢を確立するため、千島・小笠原・内南洋(中西部)及び西部ニューギニア・スンダ・ビルマを含む圏域を、いわゆる「絶対国防圏」とし、反撃態勢を整えることとなった。

 

 昭和19年2月はじめ、クェゼリン・ルオット両島の守備隊が玉砕し、2月17日には、トラック島が米軍の大空襲を受けた。このような情勢下に、3月、連合艦隊司令長官の指揮下に、中部太平洋方面の守備に任ずべき第31軍(軍司令官・小畑英良中将)が新設され、その隷下部隊として、第1・第11師団からの抽出部隊による第6派遣隊が編成された。

 

注:陸軍の大部隊を海軍の指揮下に入れたことは、大東亜戦争を通じて他に例を見ない画期的なことであった。

 
 その編成にあたっては、満州における対北方戦備態勢をくずさない範囲で、なるべく優秀な人員を充足するとともに、多くの装備を増加することとし、また編成業務の実施には、”ロ号演習”と呼称するなど企図秘匿上多くの苦心が払われた。

 第6派遣隊に差し出された部隊は、次の通りであった。

 

派遣隊長(第11歩兵団長)重松 潔少将

第11歩兵団司令部 重松 潔少将以下256名

 

歩兵第12連隊第3大隊 中村義久大将以下617名

歩兵第43連隊第3大隊 古川義正大尉以下617名

歩兵第44連隊第1大隊 濱田速雄少佐以下617名

山砲兵第11連隊第3大隊 加藤三夫大尉以下367名 山砲3コ中隊(山砲24)

工兵第11連隊第3中隊 三宅乙松大尉以下188名

 

以上第11師団 合計2662名

 

注:各歩兵大隊の編成は、大隊本部・歩兵4コ中隊・機関銃中隊(重機15)・歩兵砲小隊(大隊砲4)・速射砲小隊(一式速射砲2)であった。

 

このほかに第1師団から、歩兵3コ大隊・野砲兵大隊・工兵中隊が差し出されて第6派遣隊合計としては5100名であった。

 

これら部隊は昭和19年2月25日頃満州の各駐屯地(虎林・孫呉)において編成を完結した。

 

 第11師団から抽出された部隊は、26日朝出陣式を行い、まだ厳寒の雪と氷に覆われている東満の宝東駅で無蓋貨車に乗車、鷹森師団長以下多数の見送りを受けて行き先不明のままとにかく南に向かって出発した。

 

 行き先は秘密にされていたので見送りに来た兵士達は「とにかく元気でがんばれよ」と限られた会話を交わすのみであったが、派遣隊長の重松少将が、かって第40師団(四国の兵団で、当時、中支方面で作戦中)の連隊長であった関係から「中支方面の警備要員だろう」などと冗談まじりに噂し合う兵士もいた。

 

 3月1日の夕刻、部隊は釜山に到着、翌日には今まで着ていた冬服を夏服に交換された。

 行き先は依然として明らかにされていなかったが、夏服を支給された兵士達は南方方面の作戦に参加するのに間違いないものと判断したようであった。

 

 部隊はここで輸送船玉鉾丸(6780トン)に乗船し、3日、なおも行き先が明らかにされなぬまま船出した。

 釜山からは、第1師団から抽出された部隊等も加わって、乗船人員は約6000名となり、船内は兵士が充満して横にもなれず、そのうえ給養も悪く食事の回数も朝夕2回という状態であった。

 このような状態で、兵士達は行き先も分からないという不安もあってなぜか落ち着かぬ様子であった。

 船は途中、瀬戸内海の島々の間から懐かしい四国山脈の山並みを右方に望見しながら航行していたが、日没頃には誰言うとなく全員甲板に集まり、遙か故郷に向かって礼拝、あらためて親兄弟あるいは妻や子に対して別れを告げ覚悟を新たにした。

 

 8日には東京湾に到着し、しばらく同湾において敵潜水艦や空襲による海没に備えて避難訓練等を実施していたが、12日0400サイパン・テニアン・トラック等に行く船と船団を組み、木更津沖を勇躍出撃した。

 しかし翌朝0314には、早くも敵潜水艦の雷撃を受け、護衛艦艇旗艦「龍田」及び、同じくグアム島に行く予定であった国陽丸(4667トン)が沈没してしまった。

 このとき玉鉾丸も同じく雷撃を受けたが、損害は軽く少し傾斜したのみで兵士達は安堵した。

 

 国陽丸の沈没は、陸軍部隊の兵員には関係なかったが、その夜は一旦東京湾付近に避難後、再び南下して3月20日無事グアム島に到着した。

 

 当時、2月17日・18日のトラック空襲、続いて2月23日にはマリアナ空襲があって、敵機動艦隊の接近がしきりに報ぜられている時であったので、今回の兵力輸送も大変心配されていたが、案に相違して大した損害なしに成功したことは、陸海軍中央部をほっとさせた。

 

以下は・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

但馬丸乗員 片岡新二郎(伊野町波川理髪店経営、大正14年9月16日生まれ74才)の第3航海陣中メモから

 

昭和19年2月17日神戸発

2月28日門司

2月29日門司発釜山へ

3月1日釜山着

3月3日6時25分釜山出航

満州関東軍を12隻の船団にて横浜へ

但馬丸は約4500人

それまでスパイをあざむくために、幾度か横須賀とかに、夕方出航し、また引き返す。

3月12日04時20分横浜出航、サイパン、マリアナ、グアム等各諸島に向かう。

 

(第1分隊)国陽丸 玉鉾丸 第1真盛丸 アトランチック丸 

(第2分隊)美保丸 但馬丸  大天丸    柳河丸

(第3分隊)安房丸 日美丸  対馬丸    高岡丸 

計12隻

 

(護衛艦)司令官乙巡洋艦「龍田」

駆逐艦 「野分」「卯月」「夕企」「朝風」「平戸」「20掃海艇」「測天」「巨済」計9隻

3月13日03時15分龍田魚雷命中03時18分国陽丸炎上約50分で沈没とのこと 前途多難

3月16日03時09分敵潜水艦に爆雷攻撃 22時56分再び爆雷

3月18日爆雷投下 

3月21日高岡丸分離しどこかの島へ

3月22日サイパン入港

各船それぞれの島へ向かう

3月24日サイパン出航

那智丸 安房丸 大天丸 宗谷丸 高岡丸 日美丸 但馬丸 玉鉾丸 辰春丸 神橿丸 美保丸 備後丸 柳河丸 (護衛艦) 「野分」「野風」「満球」「巨済」(駆潜艇)3隻 拓南丸

引揚船には女子幼児のみにて男子は残り玉砕。

4月1日横浜入港

 

(以下略)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

叔父の乗った船は不明。多分輸送船玉鉾丸(6780トン)

同じく虎林から行った「死んでたまるかグアム島942日の軌跡」の著者、中西重則氏によると、同じ玉鉾丸だった場合途中サイパン島かテニアン島の浅瀬で1泊したらしい。錨がすぐ着いたという。

  

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

つづき

 グアム島 略

2 作戦準備 略

 陣地構築 略

 

 第6派遣隊等の改編

<途中略>

 その編成表は、次の通りである。

独立混成第48旅団長 重松 潔少将

 

独立歩兵第320大隊(通称1大隊、歩兵第12連隊第3大隊を改編)長 中村義久大尉

独立歩兵第321大隊(通称2大隊、歩兵第43連隊第3大隊を改編)長 古川義正大尉

独立歩兵第322大隊(通称3大隊、歩兵第44連隊第1大隊を改編)長 濱田速雄少佐

独立歩兵第319大隊(通称4大隊、上記各大隊より各1コ中隊を抽出して編成)長 宮西竹一大尉

旅団砲兵隊(山砲兵第11連隊第3大隊を改編、一コ中隊はロタ島に派遣中)長 加藤三夫大尉

旅団工兵隊(工兵第11連隊第3中隊を改編)長 三宅乙松大尉

旅団通信隊(各部隊から人員抽出編成) 長・鎌倉平和少尉

 

 

 サイパン守備隊玉砕に伴う陣地強化 略

 

3 対上陸防御戦闘 略

 米軍上陸開始 略

 21日の夜間攻撃

 

(途中略)

366ページ

 

即ち米海兵隊戦史は次のように記している。

 「21日の第3海兵団正面に対する最大の逆襲は、最東翼の第3海兵連隊に向けられた。日本軍は、約10mの距離まで接近したので、連隊長は予備隊を薄弱部に注ぎ込み、その攻撃を阻止した。しかし状況が悪化したので、師団司令部は、海岸作業隊に防御陣地の構築を命ずるほどであった。敵(日本軍)のこの戦闘の直接的な影響で、師団の攻撃発起の時刻が延びた」

 中村・宮西両大隊の夜間攻撃のほかにも、旅団は終夜にわたり小部隊による潜入攻撃を繰り返すとともに米軍上陸地点に対する砲迫射撃を実施したが、米軍は絶えず照明弾を打ち上げ、また艦艇からサーチライトの投射等を行い戦場を昼間化するとともに、艦砲等によって、わが砲迫に対して射撃してきた。わが砲兵が一発撃てば、たちまち標定され数十発ものお返しの砲弾が落ちてきた。

 

 このように、21日夜から22日払暁までの夜間攻撃は多くの損害を出して、ことごとく失敗してしまった。「米軍を水際に撃滅する」という方針は、米軍の圧倒的な砲兵火力、戦車並びに海兵隊の優秀な火力装備の前に、いたずらに損害だけが多くて効果はほとんど無かった。

 

 米軍は、この日1日で1652トンの艦砲射撃を行っており、これは上陸前の13日間にわたる事前砲撃の約1/3にあたる弾量で、1平方km当たり約36トン(旧軍92式10センチ加農砲弾に換算すれば約20m四方に1発の弾が落ちたことになる)に達するものであった。これには地上の砲・迫は含まれていないので、これを加えると莫大な弾量となり、これらのうち相当量が、夜間攻撃部隊に向けられたのであった。

 

 古川・濱田大隊の転用

転進を命ぜられた古川・濱田大隊の夜間移動は、暗夜と錯雑した地形のほか艦砲の擾乱射撃により途中相当混乱し、22日払暁、ようやく的野高地付近に到着した。ちょうどこのとき米軍は、夜間攻撃に失敗して後退中の独立混成第10連隊の第2・第3大隊に追尾して、本田台北側及びマンガン山の台端まで進出し、機関銃で両台上や的野高地を射撃していたので、その巻き添えをくうことになった。

 古川・濱田両大隊の誘導と、状況によっては第一線部隊を指導するよう命ぜられて、的野高地付近に待機中であった第29師団参謀・武田中佐は、この戦況を見て、独立混成第10連隊を救援するため、直ちに濱田大隊を本田台に、古川大隊をマンガン山にそれぞれ進出させるように処置すると共に、たまたま、明石湾・富田湾から陣地変換してきた山砲(玉振中隊と成田隊)を兵勤高地(兵器勤務隊の守備していた高地を兵勤高地と名付けた)と本田台西側に陣地占領させて、全面の米軍を射撃させた。

 

 濱田大隊のその後の移動は、円滑に行われ、的野高地東側から本田川河谷地を経て、無事本田台に到着した。一方、濱田大隊と距離的に離れていた古川大隊は、移動を始めかけたとき、米軍機100機以上の猛烈な攻撃を受けて身動きが出来ないまま、的野高地南側斜面から谷地にかけて停止してしまった。

 

 武田参謀は、「マンガン山の要地は、じ後の戦闘の中心となる所であり、いかなる犠牲を払っても、確保する必要がある」と判断し、古川大隊長に対して、敵弾下を分隊ごとにマンガン山に進出するよう指導した。しかし航空攻撃を受けて兵士たちは、あちこちに分散していたので、昼間このまま統制ある前進を行うことは不可能に思われた。そこで、武田参謀は、とりあえず尖兵小隊と工兵小隊とを自ら指揮して兵勤高地に至り、同地を占領させたのち、古川大隊長に対しマンガン山北側台を攻撃するよう指導し、大隊長は、これに対し夜襲を行う決心をした。

 

4 本田台・マンガン山付近の戦闘 略

 22日の戦闘 略

 23日の戦闘 略

 24日の戦闘 略

 

 

 

5 総反撃

 25日昼間の戦闘 略

 総攻撃 略

 一方、中村大隊の生存者は、大隊長以下負傷者を含め約50名となり、対戦車用の速射砲を前日の戦闘で破壊されたため、小銃・手榴弾及び軽機1挺を残すのみとなっていた。猛暑の洞窟の中ですでに2昼夜、飲料水さえなくなり、たまたまあった梅干しの樽の汁をすすり、中には小便を飲む者さえあった。負傷者の傷が化膿と汗のため悪臭を放ち、それが辺り一面に充満し、まさに生き地獄の様相を呈していた。

 2400が近づくと、大隊長は今までの将兵の敢闘に対する感謝と訣別の辞を述べ、付近に転がっていた一升びんにしずくほど残っていた酒で盃を交わし終わると、先頭に立って洞窟外へ出ていった。兵士達はこれに従い、予め指示された所に従って洞窟入り口付近に集結、ひそかに隊形を整えた。

 当初、米軍に発見されることなく隠密に前進したが、敵の直前まで来たとき、ついに発見され、同時に四周より集中射撃を受けて死傷者が続出し「天皇陛下万歳!」「お母さん・・・・」と叫ぶ声は、深夜の闇にひびきわたり、まことに悲壮であった。も早これまでと覚悟を決めた大隊長は、着剣を命じ自らも抜刀し、キラッと光った白線が一瞬流れたと見るや、決然と立って突撃に移った。このとき大隊長に続く者わずかに10数名。全員手榴弾を投げながら一挙に鉄条網を破壊して敵陣地に突入した。

 戦闘はたちまち混戦状態となり、中村大隊長は軍刀を縦横に振りかざし敵兵を切る度に「ひとつ、ふたつーーー」と大声で数えていた。勇戦奮闘の後に、ほとんどの者が相前後して壮烈な戦死を遂げ、ここに中村大隊の突撃は終えんしたのである。

(中村大隊総突撃の項は、元中村大隊主計少尉・佐藤孝氏手記を要約)

 

(中略)

 

 このような状況において、わが守備隊は、玉砕を期してよく勇戦敢闘し、戦場には多くの犠牲的行為や戦友愛などの美談が生まれた。しかしこの総反撃の結果、守備隊は約3000名の戦死者(約4割)をだし、総反撃の実施前約8000名を数えた兵力は、約5000名に減少してしまった。この総攻撃に当たって将兵は、鉄帽も背のうも捨てて、小銃と手榴弾を各自1個あて持って突撃し、一人として後退する者もなく、動きうる者はことごとく突進して、日本軍の伝統に殉じたのであった。

 

独立混成48旅団の最後

 翌26日0800ころから米軍は、戦車数十両を先頭に、マンガン山に向かって攻撃を開始してきた。

 この強力な敵に対して、旅団長以下残存兵士たちは激闘を交えたが、正午ごろまで依然マンガン山を確保していた。しかし、戦車に対しわれに有効な対抗手段はなく、将兵はつぎつぎと戦死して、旅団司令部は次第に米軍戦車に包囲された。

 旅団長は、敵戦車の重囲の中で、師団長宛に最後の報告をしたため、伝令に命じ司令部へ届けさせた。

 「不肖、重要正面の守備に任じたが、今や全部下を失い、戦勢挽回の途なし。誠に慚愧に堪えず。少数の部下と共にマンガン山を死守する。師団長以下生存者の武運長久と成功を祈る。」

 

 師団長は、参謀部員西山中尉を旅団司令部に派遣して、師団司令部と合一するように伝達させたが、時すでに遅く、旅団司令部は米軍に撃破され、旅団長以下司令部の人員は全員、壮烈な戦死をとげていたのであった。

 

その後の戦闘

 27日も早朝から、本田台・マンガン山での戦闘は続いた。旅団の生存者は来攻する米軍戦車に肉薄攻撃を敢行し、あるいは近接戦闘を続けていた。

 このころ、小畑司令官と高品師団長は、総反撃以後の持久戦について検討を行っており、持久地域として茶屋山・天上山の複郭陣地と島北部密林地帯を候補にあげていたが、結局縦深地域を利用する持久効果が大きいとして島北部での持久戦を決定した。

 ここにグアム守備隊は、従来の水際撃滅に現れた決戦思想を捨てて、約3000名と推定される生存者がつとめて健在することにより、米軍戦力を消耗させるという持久戦法をとることになった。

 高品師団長は、1900、本田台において各部隊に対し、持久戦への移行に関する命令を下達した。

 このころ、マンガン山は米軍に奪取され、わが守備隊は辛うじて本田台の頂上を確保している状況であった。

 28日も米軍は、戦車数十両を先頭に、早朝から本田台に向かって攻撃し、1100ごろになると、米軍戦車約30両は台地中央付近の師団司令部を包囲するようになった。

 司令部将兵は機をうかがい、後方の的野高地に向かって脱出を始めた。まず師団長と武田参謀とが米軍戦車の間を走り抜けて、崖の下に飛び込んだ。これを発見した米軍戦車は一斉に機関銃の射撃を開始したが、幸いにもその前に射弾の死角内へ脱出できた。

 続いて脱出をはかった岡部参謀長をはじめ各参謀は、米軍戦車砲弾をうけて台上で戦死してしまった。

 本田台から脱出に成功した師団長と武田参謀とは、1400ごろ的野高地中腹に到着したが、不幸にもこのとき高品師団長は遠く本田台方向から射撃する米軍戦車の機関銃弾を胸に受け、同地で壮烈な戦死を遂げた。

 本田台は、夕刻までに米軍戦車に席巻されて完全に米軍の手に落ちた。夕暮れが近ずくと共に、昼間、台上で繰り広げられた米軍戦車の突進、砲弾の炸裂、機関銃の射撃、絶叫と喊声、そして累々たる屍という悲惨かつ喧噪な場面はすっかり姿を消し、戦場は再び静寂にもどってきた。

 

(中略)

28日夜に入るとともに、米軍戦車に追われて本田台南側谷地へ離脱した生存者や、的野高地付近のわが残存部隊は、逐次、折田付近に集結してきた。

この間

 

 

  

6 密林戦 略

 生存 略

 戦闘 略

381ページ

7 終戦

 昭和20年8月17日、米軍飛行機は、グアム島密林地帯のいたるところに日本軍の無条件降伏を知らせる投降勧告のビラを撒布した。これを見た守備隊将兵の悲しみは大きかったが、残存兵士はすぐ手を挙げて降伏することを避け、しばらく様子を見ることとした。米軍は国際法規を守るであろうとは思われたが、最悪の場合どんなことをするか分からないし、またそれにもまして、正式な手続きを踏んで日本軍人としての名誉を最後まで守らなければならないという気持ちからであった。

 約1週間が過ぎて8月25日、米軍は今度は島内の主要地点に、「日本国は、天皇陛下の命により降伏した。日本兵は天皇陛下の命令に従い、武装を解除して戦闘行動を中止しなければならない。日本兵は最寄りの米軍部隊に投降せよ」と張り紙をした。

 

 8月30日、残存兵士の先任者であった武田参謀は、米軍との交渉を行うため国旗と白旗を掲げさせて、藤陸軍中将などを米軍司令部に派遣した。国旗は、これまで大切に保存してきた1枚の敷布を使い、これに島民の口紅で日の丸を書いたものであった。

 米軍との交渉の結果、武装解除は9月4日から10日までの間に行われることになったので、武田参謀は各部隊に、9月3日までに北村南方の指揮所に集結するように命じた。

 このとき指揮所に集まった約1300名の将兵は、9月4日1000思い出多い密林地帯を後に明石市の米軍キャンプに向かったが、この中の四国関係者は189名であった。

 生存者の中には昭和20年8月の終戦を信ぜず、長らく山中に潜伏していた者もあった。皆川文蔵(歩兵第18連隊第2迫撃砲中隊)、伊藤正(第6派遣隊歩兵第49連隊第3大隊、改編後の混成第10連隊第2大隊)の両氏は、終戦後15年たった昭和35年5月25日、タロホホ部落付近で発見されて内地に送還され、また、昭和47年1月24日には、実に28年ぶりに横井庄一氏(歩兵第38連隊所属、名古屋出身)が島民に発見され、その超人的な精神力もさることながら、同氏の談話にみられるその使命観は日本陸軍軍人としての真価を全世界にとどろかさせた。

 

おわりに

 独立混成第48旅団は、絶対制海・空権下に米軍上陸正面を担任し、爆撃15日以上、艦砲13日間以上の史上前例を見ない大規模かつ長期間にわたる砲爆撃を受け、圧倒的に優勢な米軍の攻撃を受けつつ旅団長以下よく団結を保ち、最後の1名となるまで戦友の屍を越えて勇戦敢闘した。

 米軍の上陸後6日間、海岸地帯において組織的抵抗によって敵の海岸?設定を阻止し、更に続けられた抵抗によって米軍が海岸?を完成したのは、実に上陸後8日目のことであった。このように長期間、敵の海岸?の完成を阻止したその成果は、まさに世界の戦史に冠たるものであった。

 野戦陣地での戦闘や反撃(逆襲)行動を主体とすることなく、地下洞窟戦闘を行うことができていれば、その成果は一層偉大なものであったと思われるが、軍の築城計画では、洞窟陣地は3月から10月末までの8ヶ月間をかけて完成するよう計画されていたので、3ヶ月間の準備期間で、しかもさんご質の土質では、これも不可能なことであった。

 戦闘を通じて発揮された旅団将兵の敢闘精神は、実に鬼神も泣かしめるものがあった。

 どの戦場においてもそうであったように、日本軍人の伝統が遺憾なく発揮され、米軍砲火に制圧されながらも、一方では米軍の心胆を寒からしめ、その行動を慎重かつ消極的なものにしたことは、旅団が6日間にわたり海岸陣地を確保し得た有力な一因をなしたものであった。

米軍は、約55000名の兵力をもって侵攻してきたが、戦死1290名、行方不明145名、戦傷5648名、計7083名の損害をだした。しかし、グアム島北部の戦闘遂行中、早くも海軍工作部隊により飛行場・港湾施設などの改修に着手して、数ヶ月にしてここをフィリピン攻略並びに日本本土空襲を行うための一大前進基地に作り上げていった。

 

<準拠資料>

多数

公刊戦史「中部太平洋陸軍作戦(1)」

公刊戦史「マリアナ沖会戦」      

グアム島作戦               

第11師団歴史

幹部学校記事

グアム島作戦史実

グアム島戦記

歩兵第12連隊第3大隊の戦闘

歩兵第44連隊第3大隊速射砲小隊陣中日誌

横井庄一著「明日への道」−グアム島孤独の28年−文芸春秋 1974年

中西重則著 「死んでたまるか」 土佐出版社

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