坂本龍馬は母方大浜氏の出身
1、はじめに
 最近先祖の事を分かる範囲で記録に残しておこうと、親族を初め色んな人に聞いてはパソコンに打ち込んでいる。父の経歴や、戦死した叔父のことや、父の母方島村氏の事、古いアルバムへ注釈を入れたり、その他色々。
 また時々足を運んで色んな体験をすればパソコンで記録に残している。
 それはほんの数年前に亡くなった親戚のおばあさんに聞くのをためらっているうちに亡くなってしまい、聞きたいこともほとんど聞けずじまいになったからである。
 そんな悔しいことが度々あり、記録(写真やテープ、メモ)に残したとて、読まれることも無く幾世代もの年月が過ぎるだろうと思いつつも、しつこく書き残している。一種の日記である。
 メモっては上書き、修正を繰り返すのにパソコンを使う。自分の先祖でもあり追求すると結構おもしろい。こう考えると便利なパソコンを操れて得をしたと思う。
 坂本龍馬に関しては司馬遼太郎の「龍馬がゆく」とそのNHKの大河ドラマ化と高知県の観光施策で一躍有名になっているが、マスコミ普及がそれ程でもない戦前とかは今ほどではなかったと思われる。自分も本格的に調べているわけでは無く、日本史とかもほとんど詳しくないが、興味が泉の如く沸き出る。
 最近の高知新聞の記事〜「龍馬ゆかりの人と土地」展によせて(上)〜によると、坂本姓は6代目直益の頃からで、もとは大浜姓で(中略)とか龍馬は「大浜寿次郎」という名を使ったのもこの地名にちなんだものだろう。(後略)とある。
 母はこの大浜の出身で坂本龍馬の変名は才谷梅太郎というのもあり龍馬が才谷を強く意識していたことが分かり興味が尽きない。
 
2、故宗光清氏との出会い
 宗光清氏は高校の社会の先生を退職され、郷土史を研究する土佐史談会員の方でした。高知大学の山本大先生だったかに資料提供もしていたようでした。高知市の小高坂の消防署の隣にお宅があり、書籍や記録の紙類で埋もれた書斎にも当時(昭和43年頃)上がらせてもらいました。
 宗光清氏の名前は龍馬研究家の土居晴夫氏の著書「坂本家系考」に何度か出てきます。 
 当時高校3年生の自分が偶然土佐史談会例会の後、彼に話しかけました。ちょうど我が母方の大浜の人を捜していたと言われた。母一家は才谷を出て各方面へ散っており、岩原家本籍の陣山の家に母方祖父母に住んでもらっていた。そこへ問い合わせの葉書を出したりしたらしいが、返事もなくあきらめかけていた時、自分が偶然声をかけたことになった。
 それが後一押しとなって土佐史談の昭和43年7月号に表題の記事を書かれた。
 
3、住居跡の碑と先祖の墓
 母の祖父が住んでいた(母の祖父が外地へ渡らず残っていたので母一家は戦後この地へ引き揚げてきた)のは、一般に言われている大浜屋敷ではなく、その手前上に(坂本太郎五郎初代の墓のわりと近く)住居跡があり、後世の研究に、もしか役立つかも知れないと屋敷跡の碑を母らが建立している。
 これも土佐史談会員の故宗光清氏に教えてもらってである。このような碑はほとんど普段はだれも振り向かないと思われるが、昨年20数年を経て、「龍馬祭」(才谷村で毎年11月下旬の日曜日に開かれている)の創始者桑田一(ペンネーム)氏と歴史家の土居晴夫氏の二人の龍馬研究家を案内できて大変幸運であった。
 この桑田一氏は歴史小説、源平の戦乱「都おどりのロマンを追う」(安徳帝の土佐ご潜幸記)なる本を書いていて仁淀村にはなじみがあると思われる。
 この方とは土佐市の黒潮牧場(黒潮牧場内の歴史館の館長)で偶然会って、龍馬祭りへ案内してもらうことにして、その時才谷にある母方の墓を案内することに。
 また土居晴夫氏は平成11年の龍馬祭りの会場で自分が初めて話しかけ、その場でお墓を案内してくれと言われ急遽案内する。
 土佐史談の復刊題1号(通刊120号)の28ページから30ページの記事に母富公江ら兄弟、先祖の名前が載っている。母は旧姓大浜で、出身地は坂本龍馬先生先えいの地、南国市才谷村で、大浜はただ一軒である。墓は嘉永3年(1850年)11月19日に72才で死んだ大浜克蔵(生まれは1779年)より以前の墓は石グロで氏名は分からない。それより以降は全部名前まで分かっている。
 
4、坂本龍馬とその先祖
 坂本龍馬(1835〜1868)の写真を見ていると叔父の故大浜龍彦と何となく似ているといつも強く感じる。
 今夏に京都国立博物館の坂本龍馬展を見に行った。実物を色々見てきた。坂本家の系図がはっきりと書かれているのは天保9年(1838年)正月の坂本長兵衛筆による「先祖書指出控」があるからと分かる。坂本長兵衛は龍馬の父八平直足のこと。
 寛文6年1666年霊元天皇徳川家綱の時代の11月八兵衛守之は坂本龍馬の曾祖父(八平直海)のまだ3代先祖であるが、八兵衛守之が高知へ出て商売を始めた。この八兵衛守之の墓碑は大浜である(高知市小高坂山に現存)。
 この八兵衛守之の叔父の市兵衛やその子佐平次がいるが、高知へ行かずに才谷に残ったらしい。この子孫は分からないが、それが上記の我が母方の大浜克蔵につながる(数代を経て)と思われる。
 土居晴夫氏の著書「坂本家系考」の10ページでは七兵衛の子孫が才谷に残った大浜氏であり、そして近代までいた云々と記されている。
 これが母方のことです。
 この数代の名前を確定できないのは我が母方の伝承では宝永の頃山津波と明治34,5年頃火事で古記類が一切なくなったことによる。
 推測すると、1779年と1666年では113年で2,3名の名前がハッキリしない。
 この2,3名の名が分かったらとわが一族(祖母や叔父)が悔しがっている訳である。

5、大浜家と坂本龍馬の先祖が共通すると思われる理由
ア、初代坂本太郎五郎のお墓と、紹介したわが大浜家の墓地が、歩いても十数分とかなり近い。

 イ、ちなみに八兵衛守之は坂本龍馬の曾祖父(八平直海)のまだ3代先祖である。才谷には他に大浜名の墓地はない。

ウ、大浜はいつ頃からかは不明だが、一時期この才谷ではかなりの土地持ちであった。

エ、大浜国馬(曾祖父)、龍慶(祖父)が坂本龍馬の坂本家とのつながりを家族に語っていた。
オ、初代太郎五郎など坂本家(大浜)の墓地のお祀りをしていた。曾祖父国馬らは初代太郎五郎と下の墓(大浜屋敷)をお彼岸とかにお祀りしていた。昭和17年頃はそれまでずっとしていたという。

カ、昭和44年頃の宗光清氏の調査で故国馬長女広猪が坂本家とのつながりを語っている。(「土佐史談」復刊第41号の文中)

キ、大浜龍慶(祖父)や大浜龍彦(叔父)など龍馬の龍を取ったらしい名前がある。

ク、「土佐史談・76号」昭和16年10月に「坂本龍馬先生系図大浜家から出づ」竹崎五郎氏の論文にも曾祖父国馬が才谷におり、一族らしいとある。竹崎氏は国馬の後妻栄(さかえ)の里らしい。

 ケ、国馬(1869〜1948)は若い頃高知の才谷屋へあいさつに行ったとか言う。

6、疑問点
ア、それ迄大浜であったものを江戸時代才谷屋の坂本直益(前記の大浜八兵衛守之の孫)が神道に強く関心を持ち、また郷士株を譲り受けたと同時に坂本と改姓したのであるが、その際に才谷から出なかった大浜の墓まではタッチしなかったのか。
イ、なぜ姓名を変えたのか。
 
7,おわりに
 色々空想をしてみると、坂本龍馬は1835年(天保6年)生まれ。このとき克蔵は56才(引き算をすると)、だから克蔵の子米助(1800年生まれ)は35才(引き算をすると)だからもしかすると龍馬と才谷へ来たときとか話をした可能性はある。
もちろん大浜米助(1800−1873年)の墓もそれ以降も現存する。

 また桑田一氏によると、坂本龍馬は江戸へ剣道の修行に行くとき(龍馬19才1853年嘉永6年)もこの地(才谷)を通って行った(当時の街道もあったので)とのこと。
 こうやって色々想像しつつ今年も「龍馬祭り」(南国市才谷)へ足を運び、散策しているわけです。