土佐勤王の志士島村衛吉について


はじめに
 島村衛吉(1834〜1865年)32才没についてはあまり詳しくは知らないので、文に書きながらまとめる事にした。

島村衛吉とは

 島村衛吉とは、一般に本などで次のように説明されている。土佐の郷士であり、南国市下島の生まれ。幼時に高知に移住。文武を磨き1854年江戸で剣術を千葉重太郎に学び、のち桃井春蔵道場で鏡心明知流皆伝を得た。土佐勤王党に加盟。
武市瑞山と行動を共にする。勤王党弾圧で投獄され拷問に耐えたが獄死。
 まず、武市半平太との関わりだが、土佐勤王党の血盟者と同志人名(署名盟約順)が横波半島の武市半平太の銅像の下にある。
 1武市半平太 2大石弥太郎 3島村衛吉その他坂本龍馬などなどとある。
 この後の方に載っている島村寿太郎は瑞山の妻富子の弟。島村寿之助は富子や島村寿太郎兄弟の叔父さんで、槍術に達し瑞山と共に槍術道場を開く。瑞山と共に獄に下り、明治18年8月30日没。
また島村左伝次は島村一族の系図にあり文久3年七卿西下の時、三条卿に従い西下する。島村外内は衛吉の兄で兄弟で国事に奔走。
 北川村の中岡慎太郎館にも島村衛吉に関する資料がありました。慎太郎の生家や中岡慎太郎記念館の近くの碑もすぐ近くにあり、長い説明の碑文の中に、慎太郎が島村衛吉に宛てた手紙がありました。

ぼくと高橋史郎さんとの出会い
 平成11年秋、そのままになっていた祖母の里島村家の事を知ろうと山内記念館に行き庄屋の事を知るにはどんな資料を見たらいいかと聞くと高知県立図書館の学芸員・高橋史朗さんの名前を教えてくれました。
 それ以来ずっと多忙でチャンスがなく、しばらくして県立図書館へ行くと退職されており電話で庄屋のことが道番庄屋根居に出ていると書名などを教えて貰いました。
 その後平成12年6月頃お宅へお伺いすると、南国市から島村衛吉の資料を現代文に解読するよう言われ取りかかっているとのことを偶然知りました。
 その時持参した自分が持っている我が祖母島村茂と島村衛吉のつながりまで確認できる島村家の系図と高橋史朗氏が郷士年譜や道番庄屋根居から割り出した系図が一致していました。郷士年譜の原典コピーをお借りしたものでした。しかし勿論全然分からない意味不明の原典でした。
 系図は島村の親戚の十数年前の年忌祭でコピーが配られたものである。
 当方も関心が次第に島村衛吉に移りました。
 古文書の権威の高橋史郎さんが島村衛吉の遺族、衛吉の養子(衛吉の兄の子つまり甥)の子の島村六郎(92才)さん寄贈の巻物を解読して下さり、とうとう平成13年5月に南国市教育委員会発行の本になった。
 南国市(歴史民俗資料館)に寄贈された島村衛吉の手紙類は同館で公開されています。

島村六郎氏

 ここで平成13年8月28日に会ってきた六郎さんについてお話しします。
 島村衛吉の資料をやっと南国市に寄贈された島村六郎さんは92才で、東京・聖蹟桜ヶ丘におられます。
 父の仕事などで北海道にいた六郎さんは親戚の島村が高知にいないとなげいており、今回ぼくが訪ねると大変喜んでくれました。
 ぼくの過密スケジュールで1時間少々しか会えなかったのですが、タクシーで彼の家に案内してもらいました。
 92歳でしたが足腰もその他もしっかりしており、声にも元気さが十分感じられました。
 お宅には、官房長官の部屋での一緒の記念写真や迫水久常氏、福田赳夫総理の揮毫などがあり、煙草の販売事業組合長で最近まで活躍された方でした。
 一緒に記念写真を撮ったりしました。
彼はいつまでも話したいようでしたが、ぼくが次の旅先へ急いでいたので聖蹟桜ヶ丘の駅前の食堂で離して貰いました。

島村衛吉の碑
 平成12年8月に高橋史郎さん宅を訪問した後、南国市下島・浜に建っている島村衛吉の碑を初めて訪問しました。
 海岸に近い旧道を東(飛行場の南に遊園地・公園がありそこから)の久枝の方から行っても、西の前浜の方から行っても下島の衛吉の碑へ簡単に行く事が出来ます。
 旧道沿いの大きな碑ですぐ発見できました。
土佐勤王党の参謀として活躍とあり、碑文の文面に改めて昔の幕藩体制下の山内家の厳しい制裁に驚きました。親戚には庄屋もおり、深い学問をした先の行動で、若いので残念に思うし、とにかくむごいと思った。
まことにおしい人物だと思う。

古文書
 衛吉の文書は坂本龍馬の手紙文と同じでそのままではなかなか読めない。
 文久元年(1861年)の旅日記などはなかなか興味深い。高橋史郎氏の解説には次のように書かれている。
 文久元年4月21日から6月3日までの江戸への道中記である。この時は武市瑞山・小笠原保馬と同行した。「借用覚」の所に「武より」とあるのは、武市瑞山のことであると思われる。
 この、道中記には、京都をはじめ各地の名所旧跡を訪れた記述が精彩をはなっており、単なる剣術家ではない教養を見せている。また巻末の部分には、吉田松陰、本居宣長の歌などを記していることは注目される。

 以下島村衛吉関係史料集より

 文久元辛酉年終一日・・・領石にて・・・過、戸手野・・・孫七方へ着く、・・・程六里。曇
 同廿二日曇り、朝五つ頃出足。川口にて昼飯、九つ半頃より雨降る。七つ過立川着、下の店屋に泊まる。道程七里。
 同廿三日曇り小揚を雇、水無にて休足。馬立にて昼飯。此処より自ら荷物を持ち、七つ半頃川之江着。
 伊吹屋佐平次方へ泊まる。道七・・・。同廿四日薄・・・寺にて・・・頃丸亀着。皆々と一所に成る。道程拾里。
 同廿五日晴れ・・は稽古に往・・。江州より両人来稽古致、格別の人にてもなし。また備前の藩小川永次郎と言人来たる、頗る大兵也。
 然れども剣を撃つ事上手とは見えず。故に不遣。
九つ半頃稽古済み帰る。七つ半頃乗船、同夜四つ時田の口湊に入る。海上七里。
 同廿六日薄雲風悪敷、しおどしと言う島に掛かり夜を明かす。同廿七日曇風・荒く、八つ半時前牛窓の湊に入る。
 此処より上陸支度致し、三里計来たり。案内の地を知らず、殊に日は暮れ雨降り、庄屋を尋ね宿を乞う。則庄屋小傳次世話を以て、百姓の家に泊。
村名磯の上という。
 と言う調子でずっと続いている。
詳しくは次の冊子で読んでいただきたい。


「南国市が生んだ土佐勤王党志士」
島村衛吉関係史料集
1冊 千円

平成13年3月 南国市教育委員会発行

全104ページで大作です。系図も参考文献も載っています。作者:高橋史郎先生