土佐勤王党員らのいた牢屋があるので行ってみました。(武市半平太がいたかは不明)
そこには下記のような看板がありました。

<これは全て参考文献「龍馬ゆかりの人と土地」平成9年5月1日発行、財団法人高知県文化財団編集・発行による>



薫的様ご昇天の御牢

 薫的様がこの御牢で冤罪のために7年間ご苦労されたと言われます。
 今より314年前寛文11年旧正月10日の明方、両手の親指をかみきり白無垢の小袖を引きちぎり血をもって辞世を書かれ、その上御自ら舌をかみ切って西の方高知城をはつたと睨み両眼を見開いたまま座禅を組んでご昇天されました。享年47才伝説によれば7日7晩大暴風雨になったそうです。
 この建物は現在はりまや町3丁目旧山田町の牢の町にありましたが明治初年今の小津ず高校付近に移転明治17年高知城西の刑務所に再移転、この高知刑務所は昭和51年10月12日高知市布師田に移転したので現在城西公園となっています。
 大東亜戦争中にはまだ実際に政治犯を収容していたもので昭和25年11月27日に、薫的神社へ払い下げをうけ大神様の当時のご辛苦を偲び奉り信者の方々の修業道場として保存することになった建物です。
                                                             
                                                 昭和60年6月1日
                                                 薫的神社