島村衛吉(1835〜1865年)の碑この冊子の元の巻物が歴民館に
これは横波スカイラインの武市半平太の銅像の下の碑です。
土佐勤王党
血盟者と同志人名
署名盟約順
1 武市半平太
2 大石弥太郎
3 島村衛吉
その他坂本龍馬などなど
島村寿之助 島村寿太郎の叔父さん、武市瑞山の妻の叔父、槍術に達し瑞山と共に槍術道場を開く。瑞山と共に獄に下る。
明治18年8月30日没
島村寿太郎 この人は瑞山の妻富子の弟
島村左伝次 系図にある(島村一族)文久3年7卿西下の時、三条卿に従い西下する。
島村外内 衛吉の兄、兄弟で国事に奔走。
上記冊子の島村家系図(衛吉)と祖母の島村家の系図とぴったり一致した。
祖母の島村家の系図とぴったり一致した。
上記冊子の島村家系図(衛吉)を作った元は「道番庄屋根居」
モネの庭ができた地に、中岡慎太郎の通った島村塾の師の墓がありました。記念碑があります。
長年県立図書館に勤務し古文書の権威のS.Tさんが現在島村衛吉の遺族(東京在)寄贈の手紙(巻物)を解読して下さった。
南国市に寄贈されたこれらの衛吉の手紙はいずれ公開されるだろう。平成18年の年末に岡豊の歴民館を見学。その時実物がショーケースに展示してありました。
我が祖母島村茂と衛吉のつながりまで確認できる系図が我が家に現存。
土佐の郷士であり、南国市下島の生まれ。
幼時に高知に移住。文武を磨き土佐勤王党に加盟。
武市瑞山と行動を共にする。勤王党弾圧で投獄され拷問に耐えたが獄死。
北川村の中岡慎太郎館にも島村衛吉に関する資料がありました。
詳しくは
高知新聞データーベースでお調べ下さい。
平成10年(1998)12月4日朝刊です。
' | 碑の遠景 | 全面の碑文 |
' |
平成12年8月に南国市下島-浜の島村衛吉の碑を初めて訪問する。
海岸に近い旧道を東(飛行場の南に遊園地・公園がありそこから)の久枝の方から行っても、西の前浜の方から行っても下島の衛吉の碑へ簡単に行く。旧道沿いの大きな碑ですぐ発見できる。
土佐勤王党の参謀として活躍。碑文の文面に改めて昔の山内家の厳しい制裁に驚く。
親戚には庄屋。
吉村虎太郎、中岡慎太郎も庄屋の生まれで、深い学問をした先の行動で、若いので残念に思うし、とにかくむごい。
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ここは
どこか分かりますか。
奈半利の中岡慎太郎館のすぐ前の中岡慎太郎の生家です。
屋敷はいつでも上がれるようで、座敷で写しました。
慎太郎の生家も中岡慎太郎記念館も上の碑もすぐ近くにありました。
長い説明の碑文の中に、慎太郎が島村衛吉に宛てた手紙がありました。
中岡慎太郎に学問を教えた島村塾も、奈半利の島村家で、モネの庭の入り口に、お墓を移転した際の碑がある。
「龍馬がゆく」(司馬遼太郎)の中の島村衛吉
ページ | |||
第1巻 | 立志篇 | 101 | すでに鏡心明智流の武市半平太が帰国した以上、江戸藩邸では、剣術師範役の石山孫六老人をのぞき、竜馬の他、島村衛吉、 |
377 | 「なに、下横目の岩崎めに?」剣術自慢の島村衛吉が立とうとした。 | ||
第2巻 | 風雲篇 | 71 | 第二班 島村衛吉、上田楠次、谷作七 |
第3巻 | 狂爛篇 | 133 | 島村衛吉などは、天井につり下げられ、 |
134 | 島村衛吉は何度も気絶した。そのつど水をかけて息を吹き返させ、 | ||
絶命の寸前、島村はかっと眼をひらき、「いつかは、よい世がきっと来る」と、 | |||
第4巻 | 怒濤篇 | ||
第5巻 | 回天篇 |
「武市半平太伝」(松岡司)の中の島村衛吉
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26 | 30 | 37 | 39 | 41 | 43 | 53 | 56 | 70 | 93 | 97 | 100 | 108 | 110 | 155 | 174 | 179 | 187 | 195 | 198 | 201 | 236 | 241 | 244 | 246 | 254 | 259 | 263 | 270 | 280 | 282 | 284 | 287 | 291 | 299 | 304 | 314 | 323 | 366 | |
本間精一郎 天誅に関して |
箸で字を書く |
島村衛吉の佩刀