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坂本龍馬の先祖大濱氏と、わが母方大濱とのつながり
「土佐史談」誌の28、29、30ページの故 宗光清氏の記事。詳しく知りたい方は、メールを下さい。

「土佐史談」の第120号復刊第41号、昭和43年7月31日発行の記事 (故 宗光 清氏)

左の画像にページをリンクしています。 土居晴夫氏
平成11年
大濱の屋敷跡の碑

       

母の祖父らが住んでいた(母一家は戦後この地へ引き揚げてきた)屋敷は、俗に言う大濱屋敷の手前上(坂本太郎五郎初代の墓の近く)です。
そこには郷土史家で故人の宗光清氏に、後世の研究に役立つからと屋敷跡の碑を叔父・母らが建立している。
宗光清氏の名前は土居晴夫氏の著書「坂本家系考」に何度も出てきます。

宗光清氏は土佐史談の昭和43年7月号に記事を書かれた。昭和43年当時高校3年生の自分と偶然土佐史談会例会か何か(高知市民図書館)で自分が彼に話しかけて、それが契機となって記事を仕上げられた。我が母方の大濱を捜していたと言われた。葉書を出したりしたらしいが、あきらめかけていた時、自分が偶然声をかけたことになる。
叔父ら兄弟が写真の碑(大濱家邸跡)を建立した(その宗光清氏のアドバイスで?)。普段はだれも振り向かないと思われるが、31年後の平成11年11月になって龍馬の研究家を案内できて大変幸運であった。宗光清氏は高校の歴史の先生を退職し、高知大学の山本大先生?か誰かに研究物を提供したりして協力し、また自分でも資料の山に埋もれて研究する土佐史談会員でした。小高坂山・山の端の小さい書斎を当時見せてもらいました。
その後自分が10年位上京している間に亡くなられたようです。県立図書館に自費出版の歴史随想風の書が数冊あります。
1971年(昭和46年)に80才で、高知市加賀野井1-18-11と自費出版の歴史随想風の書のあとがきにある。
1978年1月20日には「天誅組残党秘史長州の余燼」第2版を出されている。
 平成21年9月高知市加賀野井の宗光清氏の孫(60才)さんから連絡をもらい、写真を入手した。
故 宗光清氏

土佐史談の120号の30ページに我が母の名前(旧姓 大濱冨公江)が載っている。
出身地は南国市才谷村(大濱は一軒だけ)
坂本龍馬の先祖の地、才谷村の大濱は嘉永3年(1850年)11月19日に72才で死んだ大濱克蔵(生まれは1778年となる)より以前の墓は少々あるが、石グロであり墓碑に名はない。
わが家の母方はずっとここの墓を祀っている。

八兵衛守之(1640〜1697)が才谷村で生まれ、寛文6年1666年11月に高知へ出て商売(才谷屋初代)を始めた。この八兵衛守之の墓碑は大濱である(高知市小高坂山)。
この八兵衛守之の叔父で高知市へ行かずに才谷に残った大濱がいる。その大濱で分かっているのは八兵衛守之の従兄弟の佐平次で、ここから後は分からない。あるいは八兵衛守之の兄弟の七兵衛の子孫の誰かか。それが上記の我が母方の大濱克蔵につながる(数代を経て)と思われる。
思われると言うのは
数代が分からず系図を作ることができない。確定できないのは我が母方の伝承では宝永の頃山津波と明治34,5年頃火事で古記類が一切なくなったことによる。
1778年と1666年頃では112年で4代か5代で、4、5名の名前が分からないが、わが母方の大濱がずっと才谷に残り、坂本家のお祭り(初代太郎五郎の墓も近いし、お祭りしていたという)も戦前昭和17年頃はそれまでずっとしていたという親戚(近藤照美)もいるし、戦前大濱のおじいさん(大濱国馬ら)が大濱と龍馬のつながりを力説していたというし、若い頃高知の才谷屋へあいさつに行ったとか言うし、多分間違いない(母らはあまり当時耳を貸さなかったので分からなくなった)。

土居晴夫氏の「坂本家系考」龍馬の祖先と一族10ページ 太郎左衛門の長男七兵衛はその後も才谷に住んだが、その子孫は他村に転出したり、養子に出たりなどで、現今は才谷に大濱姓を発見することができない。
しかし宗光清氏の調査では、宮の谷という所に大濱墓地が多いとのこと、但し古いものでも嘉永3年頃のものというから、才谷に残った太郎左衛門の子孫が近代までいた事は間違いあるまい。

ちなみに大濱八兵衛守之は坂本龍馬の曾祖父(八平直海1739〜1812)のまだ3代先祖(曾祖父)である。
龍馬の父は八平直足(養子)、その父は八蔵直澄(1765〜1816)、その父は八平直海(1739〜1812)

左は大きい画像をリンクしてあります。











土居晴夫先生
左は大濱克蔵(1778安永7−1850年)の墓
上の系図の明治大正昭和の墓(才谷の大濱家墓地)

わが大濱家と坂本龍馬の先祖が共通すると思われる理由

「龍馬ゆかりの人と土地」展によせて(上)
(高知新聞の記事からほんの一部)
坂本姓は6代目直益の頃からで、もとは大濱姓で(中略)
高知城下への移住は4代八兵衛守之の寛文6年(1666)11月、龍馬は「大濱涛次郎」という名を使ったのもこの地名にちなんだものだろう。(後略)


大濱涛次郎才谷梅太郎は慶応3(1867)5月中旬寺田屋伊助あて、海援隊長就任といろは丸事件を報告する坂本龍馬の手紙に使っていました。
大濱(おおはま)は坂本龍馬も大いに意識にあり、お墓参りなどで才谷を訪問したのではと想像します。


自らを才谷と言っています。

左は土居晴夫氏の著書「坂本家系考」
昭和43年6月10日発行のもの。
かなり詳しい龍馬の家系が分かります。

右も先祖について同様に詳しい考察を加えられている。


平成11年の11月の才谷村の龍馬祭りの席上、龍馬研究の第一人者土居晴夫氏(龍馬研究会顧問)を案内し上記の碑と墓地を見て貰う。


著書の説明をリンクしています。

龍馬の先祖が南国市才谷を出て高知市へ移り才谷屋を開いてからの墓は高知市の小高坂山三の丸にある。


坂本・前大濱とある墓地(移転前)
(右)前大濱八郎兵衛正禎夫婦(才谷屋2代目)の墓(開発で消滅・移転)
不思議に墓石にと掘られている。
大濱八郎兵衛正禎夫婦(才谷屋2代目)のとき、1726(亨保11)頃苗字帯刀後免となり大濱を名乗る。(大濱姓の創始)
つまり初代太郎五郎とか長宗我部地検長では姓がありません。でも正式文書とかで公に使われ始めた(大濱姓の創始)と考える事も可能。
父大濱八兵衛守之は、元禄10年(1697年)死後苗字大濱をつけられた。(諡)
直益の墓は轡(クツワ)紋が描かれ、妻の墓は桔梗紋。才谷屋はマルニタ(丸に田)と言う人も。
この一族(左の系図)の墓石は大濱民平まで大濱である。(「坂本家系考」によって知る)
それ以降は72ページ(「坂本家系考」)
福井啓介氏や?龍穂氏とは会っていないが、どうされているだろう。

左の系図は大きい画像をリンクしてあります。「坂本家系考」28ページ
才谷屋墓地(墓石が大きい)
リンク T氏のページ「土佐の歴史散歩」(数十メートルすぐ上に墓石は移転し、数カ所の分がまとめられました)
●高知市へ出てからの才谷屋関連墓地をまとめてみました
●同じ墓地をh21・6・12訪ねました。

高知新聞(平成20年4月10日)松岡司氏の「龍馬伝聞珍聞」より
才谷に昭和20年代まで大濱を名乗る家が存在していました。小字「宮ノ谷」には大濱姓の墓があまた残っているといいますし、これらが仮に太郎五郎の分家であったとしても、やはり一族の本名字が「大濱」だった事を傍証するのではないでしょうか。

●平成20年12月13日 土居晴夫氏と叔父大濱博(南国市才谷出身)が横浜駅で会う。
●平成20年11月15日 土居晴夫氏とお孫さん来高。「赤たぬき」で話しを聞く。

(もどる)


平成11年度の龍馬研究会の総会、土居晴夫氏の記念講演の後で。
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