武市半平太(瑞山)
高知市の帯屋町の四国銀行の前にある殉節の地
上は横波スカイラインの武市半平太の銅像
高知市薫的神社
幕末の土佐勤王党員らが入っていたという牢屋で手前の看板から色々な事が分かる。
まさか現存するとは思ってもみなかった。
看板の内容
田野町
ここにも武市半平太の銅像と碑がありました。
江戸で薩長の志士と手を携え「尊皇攘夷の運動に立ち上がると約束して土佐へ帰ってきた武市瑞山(半平太)は、藩内の同志「土佐勤王党」を結成し、「公武合体」の藩論を「尊攘」に転換さすべく建議し成功するかにみえた矢先、文久3年(1863年)8月の政変で水泡に帰し、前の藩主山内容堂の頑固な公武合体論と藩の上層部と長曽我部の遺臣即ち上士と下士の対立感情も底流に働いて、つぎつぎに弾圧の嵐が吹き瑞山も獄中にあり、一藩勤王の目的は挫折した。(以下略)ただ一度の取り調べもなく元治元年(1864年)9月5日、奈半利川のつゆと消えた。
瑞山神社へ
奥さんを島村富子といい、衛吉ら数名の島村姓の勤王党員と同じ親戚になる。
ここの神社(下の絵がかかっている神社が五台山の南東にある)も訪問するのは2回目だが、前回の事はあまり覚えていない。
とてもきれいに清掃され、りっぱな神社になっていた。神社の後ろに武市瑞山とその妻冨子のお墓がある。
不思議にも武市家のお墓の後ろに島村のお墓が少しあった。
瑞山神社の中には色々な写真が掲げられていた。
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